『鬼滅の刃』がついに劇場アニメになった。ジャンプで連載を追っていた身からすると本当に驚きで、『ONE PIECE』に匹敵するほどの国民的人気を勝ち取っている今の状況が奇跡に思える。それほどまでに「この作品、大丈夫か?」と思わせる独特さがあった。そこが好きで読み続けたし単行本も買い揃えて毎週楽しみにしていたのだが、まさかここまでの一大コンテンツになるとは…。つくづくヒット作とは予期できないものなのだなと感じる。
今回アニメ化されたのは「無限列車編」と題される箇所で、TVアニメ1期「竈門炭治郎立志編」から直接繋がる続編である。無限列車と呼ばれる列車の中で、これまでで最大の敵・下弦の壱と炭治郎たちの戦いが描かれる。ここまでの予備知識は殆どの方が観る前から知っていることだろう。何せここまで大きなコンテンツで、しかも既に原作は完結しているのだから。
しかし、原作既読の方の多くが同じことを思ったのではないだろうか。
「無限列車編ってこんな勢いだったっけ??」
あれだけ人気を博した(どころか現在も記録を伸ばし続けている)作品の映画化となれば、作品にも宣伝にも気合が入るのは必至。放送終了から約1年が経過した今でも、炭治郎はコンビニや銭湯や女性用下着とのコラボを繰り広げている。マンガは読んでいなくとも、炭治郎のことは知らなくとも、あの市松模様を見ただけで『鬼滅』の2文字が誰の頭にも浮かぶ。正に社会現象である。
そんな鬼滅の初映画が「無限列車編」なのだ。なのだが…。原作を読んでいた方はお分かりの通り、この無限列車編が『鬼滅の刃』にとって1つのターニングポイントであることは間違いない。柱との共闘、上限の鬼の登場、そして煉獄の死。確かにセンセーショナルな物語で、煉獄の死はこの後の炭治郎の行動指針を決定づける一大事ではあるのだが! あるのだが!
それでもやはり無限列車編はかなり地味だと思う。この後の遊郭編が映画ならまだ分かる。というか遊郭編はキャラクターそれぞれにきちんとアクションの見せ場があって構成も上手く、尺もちょうど良いので是非映画化してほしい。しかし実際に映画化されたのは無限列車編だったのだ。
「ねんねんころり、こんころり」と何度も映画館やTVで聞いたあの印象的なフレーズを発する下弦の壱・魘夢。彼は炭治郎たちがこの時点で戦う相手としては歴代最強になるのだが、あまり手こずるようなこともなく、とにかく印象が薄い。正直、無限列車編が映画化されて1番喜んでいるのはラスボス級の待遇を受けた魘夢なのではないだろうか。
また、煉獄さんもタイミングよく様々な会社とのコラボに参戦することに成功している。CMを観ても、原作を知らない人は「頼りになる熱血先輩」くらいに考えているだろう。実際頼りになるし(彼のおかげで無限列車の犠牲者は0)熱血だし先輩であることも間違いないのだが、まさか映画の中で絶命するとは思うまい。センセーショナルな宣伝はそれほどまでに煉獄さんの存在を世間に知らしめてしまったのだ。
くどくどと書いたが、要約すると「無限列車編は地味」ということである。魘夢を強敵とは思えないし(強いには強いのだが他と比較して、という意味で)、あれだけ猛プッシュされている煉獄さんもこの映画が唯一の見せ場である。原作未読の方はかなり驚くかもしれない。もはやレギュラーメンバーと同等の扱いを受けている男があっさりと死んでしまうのだから。
無限列車編は確かに地味なのだが、物語としては面白い構造になっていて、前述の通り『鬼滅の刃』という作品において重要なエピソードとなっている。
まず、今回炭治郎達が戦う相手、下弦の壱・魘夢は人を眠らせる血鬼術を使う。彼は列車にいた人々を懐柔し、命令通りに動けば幸せな夢を見せ続けてあげると約束する。もちろんそれこそが罠なのだが、恐怖に陥った彼らはとにかく少しでも幸せになろうと言いなりになってしまう。
炭治郎はカナヲとのシーン(TVアニメ版第25話)で、心の声が小さいカナヲに向け、「人は心が原動力」だと言う。自分で物事を決めない彼女に対して、もっと心を動かそう、正直になろうという意味だ。このシーンだけでも炭治郎の独特な優しさが存分に発揮されているのだが、実は魘夢も炭治郎と同じ考えを持っている。
魘夢は人が心のままに動くことを理解している。だが、炭治郎と違うのはその矛先である。炭治郎は「人は心が原動力だから、どこまでも強くなれる」と言ったが、魘夢は人間の原動力が心にあると知ったうえで、「人間の心なんてみんな同じ。硝子細工のように脆くて弱い」と発言しており、つまり心さえ破壊すればどんなに強くても関係がないという考え方。その考えが、彼の「夢を見せる」という血鬼術に関係しているのだろう。どんな人間だろうと眠らせて夢を見せ、強制的に心の核を破壊してしまえば倒すことができる。また、彼は賢いために心の影響力が強いことも熟知している。そのため、決して自分では手を下そうとしない。人間を操り、脅して人を殺させるのだ。
それこそが魘夢が印象に残らない所以だとも思う。魘夢自身は最後まで手を下さず、やっと炭治郎達が目覚めて戦うかと思いきや列車と合体していた。全てが首を斬られないための時間稼ぎであり、彼が知略に優れていることはよく分かるのだが、純粋なパワーの面では他の鬼に劣る。
また、鬼は首を斬られた後にその哀しい過去が明かされるのが常だったのだが、魘夢は何故か原作で唯一、炭治郎たち5人を審査員のように評価して終わる。5人の活躍を分かりやすく解説してくれるいい鬼ではあるのだが、バックボーンは見えてこない。それに、列車と合体して200人を食った後は一体どうやって生きていくつもりだったのかもよく分からない。
魘夢の能力はパワー型が多い他の鬼とは異なり、相手を眠らせるという精神攻撃型である。そのため無限列車編では、炭治郎達の敵は己自身とでもいうような構造になっている。眠りから覚めるためには夢の中で自分の首を斬らなくてはならないと気づいた彼は、幸せな夢ではなく過酷な現実を選択し、何度も何度も眠らされる度に己の首を斬る。夢の世界と厳しい現実の二者択一は、フィクションではよくある題材。大概が「現実なんか忘れて夢の中にいる方が幸せじゃないか」などとフワフワした敵が宣っているのを主人公が糾弾する流れになる。無限列車編もその類なのだが、現実の過酷さを提唱する作品で『鬼滅の刃』の右に出るものはない。
家族がいきなり理由もなく殺され、唯一生き残った妹は鬼にされ、田舎の炭売りだった少年が突如鬼と戦う運命を背負わされる。鬼殺隊に入り修行を重ねても、人間には限界がある。鬼のように体は再生しない。仲間も人も次々と死んでいく。そんな過酷な現実の中で受け継がれていく「人の思い」こそが大切だと示した壮大な人間賛歌の物語こそが、『鬼滅の刃』なのである。だからこそ、家族が死んでいない幸せな夢への誘惑はとてもリアルで思わず共感してしまう。現実の厳しさを丁寧に描いてきた作品が、ここに来て一つの集大成を迎えるのだ。そしてそのすぐ後にまた1人、炭治郎は大切な仲間を失うことになる。なんと酷い話だろう。
前置きが相当長くなったが、ここまでが私の思う無限列車編の感想である。端的に言えば、「無限列車編は地味! でも地味だからこその良さも際立ってるよね」ということ。ここからは映画を観ての感想を。
率直に言えば、観る前と後でここまで感情に落差がある映画も珍しいよなー、と。予告であれだけ煽った強敵・魘夢と遂に動き出した鬼殺隊幹部である柱の1人・煉獄杏寿郎。なのに蓋を開ければ煉獄さんは前半ほとんど活躍しないし魘夢はすぐに巨大なミミズと化し、終いにはより強い上弦の参の登場により観賞後はどんどん印象が薄れていく。それでも、よくぞ原作をここまで丁寧にアニメ化して2時間の感動大作に仕上げてくれた。本当に嬉しい。
原作では炭治郎が煉獄を探して無限列車に乗り、そこに鬼が出ているという流れなのだが、これを炭治郎達に任務が与えられたという設定に置き換え、彼等の接触を自然なものにする。思えばTVアニメの時点でかなり無限列車編に気合を入れていた。そして映画が始まり、予告でも何度も聞いた煉獄の「美味い!」。原作では連呼するような演出だったが、まさか一口毎に美味いを繰り返すとは…。掴みはバッチリというか、煉獄さんの変人度とインパクトがかなり印象づけられた名場面。
そして鬼が出現し、煉獄さんが不知火の一撃で首を斬る。ずらっと立ち並んだ灯篭に火が灯っていく素晴らしい演出が大作の始まりを予感させる。原作ではここで「兄貴ィ!」の掛け声が始まるのだが、なんともう一体鬼が現れる。そこで初めて披露される炎の呼吸弍ノ型・昇り炎天。単なる尺稼ぎではなく、柱の強さと格を演出するアニオリシーン。こういうところ、鬼滅はかなり信用できる。そこから暫くはドラマパートということもあり、ここで突然のアニオリシーンに心の中で大歓声である。
ドラマパートも秀逸な出来。失った家族と夢の中で再会した炭治郎が、自決をして夢から覚めようと試みる。六太がズルい。小さな男の子の声であんなに泣かれて喚かれているのに夢を吹っ切れる炭治郎を素直に尊敬する。ここで隣に座っていた女性は号泣していた。分かる。すごく分かる。そして魘夢との戦い。ここでも見事なアクションが披露される。とはいえ、やはり魘夢は人型の時はあまり印象がない。しかし、列車と合体していることが判明してからのラスボス感。首を斬った後のミミズ化も原作より巨大になっていて、列車もボコボコとより気持ち悪くなっていく。原作より格段に派手になった魘夢の列車化。巨大なものと戦うのってなんだか総決戦感がある。そこでの煉獄さん覚醒一撃目も最高。列車の外からの視点になり、後方車両の窓から赤い光を伴い一瞬にして移動・攻撃する煉獄さん。善逸より速いでしょあれ。原作では列車が少し揺れる程度の表現だったのに! アニオリとまではいかないまでも、映像化の新解釈として満点というか。もうね、一瞬一瞬が神懸かりすぎていて言葉が出ない。漫画では表現できなかった部分、漫画でちょっと描写が足りなかったなという部分が全て最高の状態でアニメ化されている。そりゃこれだけ人気にもなるよなと。いやTV版の時点で分かっていたことではあるのだが。
そして列車と一つになった魘夢との最終決戦。原作以上の気持ち悪さを携えた魘夢に炭治郎と伊之助が立ち向かう。実は無限列車編は伊之助の本格的な活躍が堪能できる一編なので、ここでのアクションには期待していた。結果、これも大満足。獣の呼吸のあらゆる技が高解像度で観られて本当に嬉しい。原作では意外とあっさりだった戦いも、超絶作画で見事に手に汗握る展開となっている。もう無限列車編は地味なんて言い方はできない。
そして、原作既読勢の誰もが待ち望んでいた、いや、来てほしくなかったであろう猗窩座の登場。ここまで煉獄さんを活躍させてきたわけだし、アニメオリジナル展開でこのまま仲良く帰宅パターンもほんのちょっとだけ予想していたのだが、そんなわけにはいかなかった。無情にも猗窩座は現れ、煉獄たちに攻撃を仕掛ける。前半がドラマパートばかりだったことや後半も等身大の鬼とほぼ戦わなかったことの尻拭いなのか、怒涛の攻防を繰り広げる煉獄と猗窩座。まさか石田彰ボイスだとは夢にも思わなかったが、声優の知名度もその強さを物語っている。ズタボロになっていく煉獄さんと、腕を切ってもあっさり再生する猗窩座。アニメで色がつくことで、鬼と人間の体の違いがよりハッキリと分かる。猗窩座が両腕をちぎって刀が首に挟まったまま逃げるシーン(変な姿勢で空中に浮かぶ)が大好きなので、アニメでもきっちりと再現されていたのはよかった。そして、やはり死んでしまう煉獄さん。漫画で読んでも悲しかったが、予告で何度も強キャラぶりを演出され映画の冒頭でも強さを発揮し、猗窩座と死闘を繰り広げる彼の最期は、やはり感動的だった。煉獄さんの腹に風穴が空いてから、劇場の至る所から啜り泣きが聞こえてきた。最後の伊之助の言葉に、私も耐えられず涙。
主題歌「炎」はここで初めて聴いたのだが、エンドロールのバックで何度も煉獄さんが遺影みたいに出てくるのが辛い。原作を全く知らない人はあれだけ頼りになる兄貴分っぽく宣伝されていた彼の死をどう受け止めているのだろうか、などと余計なことが気になって仕方がない。私は心の準備ができていたが、何も知らなかったら立ち直れなかったかもしれない。
長くなってしまったが、本当に素晴らしい映画だったと思う。2時間の映画としても、アクションアニメとしても、無限列車編の映像化としても、満点以上の出来だった。地味だった魘夢は列車との合体を気持ち悪く演出し巨大化の印象を強めることで強敵と化した。煉獄さんの強キャラ感も、最後の感動を煽るためにうまく演出できていた。もう彼の活躍をアニメーションで観ることができないというのが悲しいが。
続きが2期になるのか映画になるのかは分からないが、煉獄さんが亡くなった後に煉獄家に足を運ぶお通夜のような展開からスタートするのは間違いない。もう今から煉獄父の気持ちを汲み取ってしまって辛い。そして、煉獄さんの死がここまで劇的に描かれた以上、今後のアニメでのキャラクターの最期にも注目したい。上映回数も話題になり、原作が完結した今でもまだまだブームは終わらない。邦画アニメ史上最大ヒットも満更ではないかもしれない。煉獄さんは死んでしまったが、アニメで続きがあることが唯一の救いである。続報に期待したい。