2000年に始まった『クウガ』から連なる平成仮面ライダーの歴史が遂に終わる。要は元号が令和に変わることで令和ライダーにバトンが渡されるという話なのだが、平成の名を冠し常に歴史の最先端を走り続けたシリーズが一旦幕を閉じるというのはファンにとっては衝撃的な出来事なのである。奇しくも記念すべき平成仮面ライダー20作目の『ジオウ』がそのフィナーレを飾ることとなり、「平成ライダーの集大成」は避けられなくなった。過去作のキャストをレジェンドとして出演させ、主人公の常盤ソウゴがその力を受け継いでいく。最高最善の王様を目指す彼が19人全てのライダーの歴史を受け継いだ先に待つものとは…。『ジオウの本当の最終回』とも宣伝された今年の夏映画は、ジオウどころか「平成ライダーの終わり」にまで切り込み、更には平成という時代にまで立ち向かう意欲作だった。メタ的構造を持ちながら、制作側の半ばヤケクソ気味の事情すら物語に落とし込んでしまう離れ業が出来るのは数あるエンタメ作品の中でも仮面ライダーくらいのものだろう。
映画の内容の前に、『ジオウ』という作品について少々。
良くも悪くも『仮面ライダージオウ』は、平成ライダー初期の話題性を重視した作風が非常に強い。それは『ディケイド』ぶりにメインプロデューサーを担う白倉Pの特徴でもある。毎週(もしくは2週に1回)過去作のキャストをゲスト出演させ、ジオウの物語自体にも意外性を放り込む。その時々のファンの意見に近づけ、それを上回るものを提示する。その結果、主役ライダーだけでなく、まさかの仮面ライダーアクア本人出演まで成し遂げてしまった。しかし、その作風は整合性と相反するものであり、『ジオウ』はソウゴとゲイツの2人に焦点を当てつつも、背景の設定は次々に上書きされ視聴者は混乱させられていく。この混乱がいつの間にか物語の爆発力によって吹き飛ばされるのが理想だが、残り数話では納得のいく設定を作るのはもう難しいかもしれない。
ソウゴ、ゲイツ、ウォズ、ツクヨミという4人のメインキャラクターすら背景があやふやなまま進んでいるジオウ。世間では過去作のキャラクターを登場させ丁寧に紡いだ後日談への反響が凄まじいが、私としてはもっとジオウの物語を観たいというのが本音。そんな中で、この映画ではメインライターの下山健人によって、ソウゴの真実とウォズの正体が明かされる。本来ならもっと早くやっておくべき物語なのはさておき、やはり仮面ライダーシリーズを追い続けている身としては、「平成ライダー」という言葉の重みがぎっしりと詰まっていて避けて通れない映画だった。
昨年の冬に公開された平成最後の仮面ライダー映画、『平成ジェネレーションズ FOREVER』が平成ライダーとファンの関係に踏み込み、「思い続けることで仮面ライダーは確かに存在する」と綺麗に落とし込んだのに対し、本作は平成ライダーを作り続けたスタッフの心の叫びが映像作品になったような、そんな一作。特徴として、この映画は子供向け番組と思えない程にメタ要素が盛り込まれている。これ自体は好き嫌いが分かれそうだが、私としては先週発売されたムック本のインタビューで既にそのことを知っていたので抵抗はなかった。ちなみにこの書籍、ウォズ役の渡邊さんが「ウォズがソウゴ達を裏切る展開は真っ先に頭の中から消していた」ことやサブライターの毛利さんの一言が門矢士を準レギュラーに押し上げたことなどが示唆されていて、ファンとしてはマストなアイテムだ。
仮面ライダー公式アーカイブ FIGHTING TIME ジオウ×ゲイツ
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何より映画で衝撃的だったのは、ソウゴの真実とウォズの正体。この2つに順番に触れていこう。
まずはソウゴについて。元々、ソウゴが掲げる「王様になる」という目標には、全くと言っていいほど背景がなかった。彼は生まれつき王様になりたいとだけ思っており、そのまま成長してしまったことで大学受験もせずにひたすら王様を目指す奇妙な青年が出来上がってしまった。かといって王様になるために何かをしていたわけでもなく、彼の王様という夢は口だけのもの。しかし、そこにゲイツとツクヨミが現れることで、彼が平成ライダーの力を手にし、最低最悪の魔王になることが判明する。『ジオウ』という物語自体を牽引しているのはソウゴの「王様になりたい」という夢だが、その言葉には明らかに背景が伴っておらず、初期にはソウゴは「王様になりたいと言うだけの変な奴」という属性が付与されている。しかし、ライドウォッチを手にしていくことで王様という言葉が具体性を帯びる。だからこそ、ゲイツやツクヨミが彼の行く末を危惧する「オーマの日編」に繋がる。だが、ゲイツと和解を果たした今でも、ソウゴが王様になろうとする理由は詳しく語られない。「民のため」という言葉が偶に彼の口から出るが、彼の思うよいことと悪いことの区別がハッキリしていないため、何故彼が世界をより良くするという考えを持っているのかは未だ不明のままだ。
この映画でも、その理由は語られない。オーマジオウライドウォッチを手にした瞬間ですら、「世界を良くしたい」の一言で片付けてしまう。彼が現代社会のどこに不満を持っているのか、それをどう変えたいのか、ジオウの物語はここに踏み込むべきだと思うのだが、おそらく最後までここを語らないスタンスは変えないのだろう。
今回明かされたのは、ソウゴがまさかの替え玉だったという事実。特撮ファンなら昨年の『仮面ライダービルド』の「作られたヒーロー」という言葉が頭をよぎるか、『侍戦隊シンケンジャー』終盤の展開を思い出すだろう。そう、常盤ソウゴは実は王に選ばれるような器ではなかったのだ。平成を書き換えようと考えたクォーツァーによって利用されただけの文字通りの「普通の高校生」だったのだ。現在テレビ本編でディケイドの力を奪いラスボスのように君臨しているスウォルツすら、彼らに利用されたに過ぎない。去年とネタがカブっていることは一旦置いといて、この展開自体は非常に面白いと思う。常盤ソウゴが爽やかスマイルで平成ライダーの歴史を奪っていたことは度々指摘されてきたが、その積み重ねが全て裏目に出るという展開。ソウゴにとってはきっとオーマジオウに初めて会った時並みの絶望感だったに違いない。
更にこの計画にウォズが一枚噛んでいたという事実。レギュラーキャラの真実をこんな番外編的映画でやっていいのかとは思うが、これで彼の何故か万能なスカーフの謎も明かされた。つまり、彼がオーマジオウに近づいたのも全ては平成を書き換えるためということである。オーマジオウが平成ライダーの歴史を手中に収めたという事実を利用し、ソウゴを傀儡としてジオウにすることでSOUGOを王にしようとしていたのだ。この展開がゲイツとの衝突を生み、ウォズの本音を垣間見ることができたのはファンとして素直に嬉しい。何より、過去最大級の「祝え!」にはただただ平伏すのみだ。
だが、この映画でもたらされた衝撃の事実は、本編の内容と大きく矛盾している。いや、考えれば考えるほどわけが分からなくなるのではっきり矛盾だとは言えないかもしれないが、とにかく時間ものは非常に難解なのだということは理解した。
まず、オーマジオウがソウゴ自身であることは第15話ではっきりしている。先に紹介したムック本でも白倉Pが「オーマジオウがソウゴじゃない説を真っ先に否定した」と断言しているため、別人であることは考えられない。つまり、あのオーマジオウはSOUGOではなく、常盤ソウゴだ。また、クォーツァーは平成の歴史を書き換えようと、ソウゴを利用して平成ライダーの力を手中に収め、新たなジオウになろうとした。つまり、この出来事が成功すればオーマジオウの正体はSOUGOということになる。だが、未来にはソウゴのオーマジオウが君臨しており、SOUGOは存在していない。つまりその時点でSOUGOの敗北は決定している。だが、ここでややこしいのがウォズはオーマジオウの時代の人間であることだ。つまり、クォーツァーのメンバーも2068年から来たと推測される。2068年、オーマジオウが魔王として君臨する時代に彼らは何故か平成を書き換えようと考え、ウォズを差し向けてオーマジオウの側近にした。しかもウォズはレジスタンス側に付いていたので3重スパイということになる。
だが、ウォズが接近したこのオーマジオウは常盤ソウゴなのだ。つまりSOUGOの介入がなくともソウゴはオーマジオウになる、ということになる。もっと難しい理屈を出せば正史としてうまくSOUGOの行動を組み込むこともできるのだろうが、何しろ時間ものはややこしい。頭がこんがらがるので私の脳では処理できない。もしジオウの物語を一本の時系列にまとめることができる方がいたらご教示願いたい。
だが、そんなことは最早関係ない。平成ライダーは理屈ではないのだ。それは平成ライダーを観てきた私たちが何より知っているだろう。顔にライダーと書いてあったら仮面ライダー、そんな鋼のスピリットこそが平成ライダーなのだ。しかし、「平成ライダー」という言葉は非常に便利である。全く持って共通点のないヒーローたちを平成の仮面ライダーというだけで一括りにできてしまうのだ。この万能性に胡坐をかいて次々と予測不能な作品を世に打ち出してきたシリーズ、それが平成仮面ライダーシリーズなのである。しかし、無情にも平成が終わり、新たな時代が始まってしまう。そこで平成ライダーをどう終わらせるか考えた挙句、ヤケクソになって平成ライダーという概念を暴走させたのがこの映画だ。
最終的には仮面ノリダー、ゴライダー、漫画版クウガ、舞台『仮面ライダー斬月』に登場した斬月カチドキアームズ、仮面ライダーGと、様々な平成ライダーが登場し、最早春映画の域である。というか、久しぶりに春映画のにおいを嗅ぐことができて、お祭り作品大好きな私としては感無量であった。バールクスが最後にJの力を使って巨大化したところで大笑いしたし、平成ライダーキックからの「平成札」の春映画感も最高。ああいった「ちょっとやりすぎてしまう感」は毎年やられると嫌になるが、なければないで寂しいものなのである。
そんなはちゃめちゃな映画(しかも出だしが織田信長で、そこにクリム・スタインベルトの祖先が絡んでくるのだから恐ろしい)で、しっかりと見せ場があったのが仮面ライダーマッハこと詩島剛。いや本当に歴代レジェンドの誰よりも優遇されていたのではないだろうか。進兄さんが出なかったことは非常に残念だが(絶対に出ると確信していたので出ないことに本当に驚いた)、変身シーンも何度かあるし、何より剛はチェイスの話を出すだけでファンを泣かせられるからズルい。
この詰め込み具合といい、整合性が取れてるんだかどうか怪しい点といい、私としては平成の集大成的春映画というのが一番の感想だ。仮面ライダーGなど驚きの出演はあるものの、その出し方は春映画の手法に非常に近い。ただ、何かと揶揄される春映画だが、私はかなり面白がって観ていたので非常に楽しめた。また、この映画は「過去ではなく今を生きる」というテーマが明確になっており、こんなごちゃ混ぜな映画でもきちんと交通整理をする下山脚本に頭が上がらない。『ジオウ』のOP冒頭ナレーションでもある通り、「時代を駆け抜けてきた平成ライダーたち」は、文字通りその時代に斬新なテーマと王道のヒーローを掛け合わせて様々に姿を変えて番組として存続してきた。今でこそ20人並んだ時の統一感のなさが槍玉に上がるが、そもそも平成ライダーは集結を目的とした作品ではない。時代に沿って制作陣が懸命に考え抜いたアイデアの集大成なのだ。統一感など平成ライダーの前では大した問題ではないのである。そういったメタ的な声を物語に落とし込み、「平成」という時代に真正面から切り込んでいる点は素直に評価できるし、何より平成仮面ライダーを観てきた人間ならいろいろと思いを馳せることができるだろう。
整合性よりも話題性を優先させて作品の熱量を上げる手口は、平成初期世代の私にとって「平成ライダーを観ている!」感が非常に強い。エグゼイド、ビルドととにかく理屈や伏線を重視する作品が続いたことも相俟って、こういったその場のノリが重視される作風は嫌煙されることも多いだろう。現に『ジオウ』には否定的な意見も散見される。確かにキャラクターの関係性はうまく育っているものの、背景はあまりにもぼかされていて、レジェンド出演に騙されている部分も大きいかもしれない。しかし、平成ライダーが続いてきたのはこういった話題性を取り込む巧妙なやり口によるところが大きいと思う。むしろエグゼイドやビルドのような作品の方が稀だ。二転三転する設定や言動の不一致など細かいところで粗が出ていることは否めない。だが、それこそが平成ライダーなのだと私は思う。1年もの期間番組を存続させるということはそれだけ難しいことなのだと、平成ライダーは私たちに教えてくれた。
平成ライダー劇場版最終作として、物語の出来はともかく、平成ライダーの幕を下ろすという意味では非常によくできた作品だった。後は令和ライダー第1号である『仮面ライダーゼロワン』に期待するのみ。今回の映画でもまさに「ライジングホッパー」と言うべきアクロバティックな戦法と野性味のあるアクションが非常に衝撃的だった。『ジオウ』でもアギト編を担った杉原監督は、新たな時代にどんな衝撃をもたらしてくれるだろうか。今から楽しみでならない。
最後に、DA PUMPの新曲にのせてジオウの過去の場面写真が次々と出されるエンドロールが素晴らしかった。やはりジオウはソウゴ、ゲイツ、ウォズの3人の関係性の物語になると途端に素晴らしくなる。何よりエンディングのノリノリ感が最高!
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