『パージ:大統領令』ざっくりとネタバレ感想! もっと馬鹿げた映画が観たかった…

 

パージ:大統領令 (字幕版)

 

年に一度だけ犯罪が合法化されるという斬新な設定で話題のパージシリーズの3作目は、いよいよ大統領候補まで巻き込んだ。パージ賛成派と反パージ派の争いは1作目からうっすらと描写されていたが、今回戦いの舞台は政治の世界にまで及んだ。2作目の『パージ:アナーキー』は、1作目よりもスケールを大きくしシリーズの世界観を拡張したが、本作『パージ:大統領令』は、シリーズの完結編。「殺さないことこそ美徳」というテーマを掲げ続けたこの作品は、一体どのような結末を迎えるのか。非常に楽しみにしていたのだが、何故だかこのシリーズは芸術的・宗教的なモチーフが好きなようで、どうにもフラストレーションの溜まる映画になってしまっている。

 

「犯罪が合法化され、何をしてもいい一夜」という設定を聞けば、おそらく多くの人はかなり馬鹿げた映画を想像するだろうと思う。設定自体、頭のネジが何本も飛んでいるような突飛さなのだ。しかしパージシリーズは、R指定ではあるものの、意外にも真面目に作られているというか、正直頭が固すぎる部分もある。殺しの夜というアイデアに対し、派閥の抗争や、低所得者の口減らしなどの社会問題を取り込むことで、どちらかと言えば”考えさせられる”映画になっていたのだ。そんな世界観の中で、2作通して”人を殺さないこと”が語られてきた。1作目はある一家の母親が、2作目は息子を殺された警官が、復讐心をなんとか堪え、映画の構造的にパージを否定していくという流れだ。

 

パージの否定とはつまり、2作目のタイトルにもある通り、「アナーキー」になることなのだ。「犯罪が合法化される夜」が大統領の決定であるこの世界では、反パージ派はアナーキーとされる。また、上にも書いた通り反パージ派とは、その夜に標的にされてしまう低所得者やホームレスなどの社会的弱者だ。パージシリーズには、こうした金持ちへの偏見(2作目では殺人パーティーまで開催していた)が垣間見える。これはおそらく、脚本も担当しているジェームズ・デモナコ監督が最も掲げたいテーマなのだろう。高所得者層への恨み節にも聞こえるこの作品を隅々まで考察すると、設定の突飛さとは裏腹に社会問題を念頭に置いていることが分かる。

 

 

 

 

このシリーズは要するに弱者への賛歌なのだと、私は考えている。メインキャラクターの多くは、反パージ派もしくは中立であり、パージに積極的に参加しようとする人物は悪として描かれる。それこそがパージシリーズなのだ。そして今作では遂に、大統領選の候補者であるチャーリー上院議員の逃亡劇が描かれる。過去のパージの夜に家族を惨殺された彼女は、パージの撤廃をマニフェストに掲げていた。しかし、当然ながらパージ賛成派としては目の上の瘤であり、しかも政治的な策略によって、これまで禁止されていた政治家の殺害まで解禁されてしまう。絶体絶命のピンチに陥った彼女をサポートするのは、前作の主人公であり、復讐を遂げず人を殺さない道を選んだレオであった。

 

パージの設定はかなり画期的かつ独創的なものである。しかし、この映画は結果的に「狙われた大統領候補」というだけの作品になってしまっており、言うなればパージシリーズが持つアドバンテージを自らかき消してしまうほど、”どこにでもある”映画になってしまっていた。パージが抱え続けたテーマ性も、この域まで達してしまうと、「どこかで観た」というような印象の薄いものになってしまっている。総じて思うのは、やはりこのシリーズはもっとキャラクター性で勝負した方がよかったのではないかなということ。人知れず殺人を繰り返してきた悪人が、パージの夜に本性を曝け出す、など、もう少し浮世離れしたキャラクターを出してもよかったと思う。もちろん、エンタメ性よりもリアリティを重視した作風がやりたいのも分かるのだが、結果的には「斬新だったのは発想だけ」というこじんまりとした印象に落ち着いてしまっているのだ。

 

やたらと目立つ(というかポスターなどにも使われている)大仰な仮面。素性を隠してパージの夜だけは殺人に明け暮れる者たちへの恨みつらみ、そしてパージを否定する者たちへの賛歌。1、2作目と同様のことをやっているはずなのに、スケールが拡大してしまったが故に、逆にチープに見えてきてしまう。物語には起伏もなく、ただ「パージの夜を終わらせる」ことに執着している。監督に言いたいことはただ一つ、「もっと馬鹿になってみろよ!」ということだ。社会問題への意見を前面に押し出すのではなく、エンタメ性の中でその要素を消化していってほしい。こんなにも斬新な設定を思いつける彼ならきっとできるはずである。

 

 

 

 

 

 

 

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